ヨーロッパにおける宮廷文化の発達と市民階級の台頭によって、保湿・吸水性にすぐれ、肌ざわりもよく、安価で装飾に適した綿織物の人気は上昇していった。とくにインド産綿織物は染色が容易で柔らかく、丈夫だったため、世界各地から求められ、18世紀のヨーロッパに「ファッション革命」をもたらしたといわれる。いかに木綿の原料を入手するか、あるいは、いかに綿製品を安価に大量に生産するかをめぐる競争や抗争は、18世紀以降の世界史を大きく動かしてきた。18世紀のインドにおけるカーナティック戦争をはじめとする英仏間抗争、アメリカ南部での綿花プランテーションの開始、イギリス産業革命における技術革新などはそのような歴史事象の例である。
啓蒙の世紀
詳細は啓蒙思想、百科全書をそれぞれ参照
17世紀の科学革命の成果を受け、18世紀には合理的な思考を自然のみならず社会にもあてはめ、理性に絶対の信頼をおいて、非合理的なものを批判する啓蒙思想がフランスを中心にひろまった。ダランベール、ディドロらによってパリで発行された『百科全書』は啓蒙の集大成であり、当時の先端科学からアジアの情報までふくまれていた。
フランスでは、『哲学書簡』のヴォルテール、『法の精神』のシャルル・ド・モンテスキュー、『社会契約論』・『人間不平等起源論』のジャン=ジャック・ルソーらによる啓蒙思想が、絶対主義や宗教の非合理的な面を批判する下からの変革の思想となった。
これに対し、ドイツやロシアでは富国強兵をめざす絶対主義君主が「上からの近代化」をおしすすめるために啓蒙思想を利用した。このような君主を啓蒙専制君主という。「君主は国家第一の下僕」ということばを残したフリードリヒ2世(プロイセン)やエカチェリーナ2世(ロシア)、ヨーゼフ2世(オーストリア)は、その代表である。イギリス経験論と大陸合理論の統合を果たそうとしたドイツ観念論哲学の祖イマニュエル・カントは、ドイツ啓蒙思想の代表でもある。また、ゴットホルト・エフライム・レッシング(ドイツ)は劇場活動を通しての啓蒙に意を注いだ人物だった。
2つのバブル
南海バブルと議院内閣制の成立
イギリスでは、1714年のアン女王の逝去によってステュアート朝が断絶し、王位継承法によってジェームズ1世の曾孫に当たるハノーファー選帝侯ゲオルクがイギリス国王ジョージ1世として招かれた。ハノーヴァー朝のはじまりである。即位当時のジョージ1世は英語が話せず、イギリスの政治事情にも不慣れだった。
そうしたなか、イギリスでは1720年に南海泡沫事件(南海バブル)が起こった。南海会社は、1711年にロバート・ハーリーによって、イギリスの財政危機を救うために国債の一部を引き受けさせ、奴隷貿易による利潤でそれを賄う目的でつくられた貿易会社だった。ユトレヒト条約の結果、イギリスがスペイン領への独占的奴隷供給権(アシエンタ)を得たことから、おもにキューバでの奴隷貿易を行う目的で設立されたが、密貿易の横行やスペインとの関係悪化、海難事故などで本業が振るわず、国債を引き受けるどころか、会社経営そのものが危うくなりつつあった。苦境に立った南海会社が1718年に富くじを発行するとそれが成功をおさめ、会社は金融機関に変貌していった。
1719年、巨額の公債引き受けの見返りに額面等価の株券発行許可を、イングランド銀行との熾烈な入札競争の末に勝ち取った。しかし、そのため巨額な上納金を政府に支払わなければならず、南海計画という無謀な返済計画を立てた。
その結果、わずか数か月で株価が10倍に高騰し、人びとはこぞって投資に狂奔し、空前絶後の投資ブームが起こった。しかし、バブルの破綻は間もなくあらわれた。無許可の会社が乱立する一方で、バブルが崩壊し、あらゆる株価が暴落する恐慌に陥った。貴族やブルジョワジーに限らず多くの人びとが投資熱にあおられて株に手を出していたため、これにともなう混乱はひじょうに大きなものだった。
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事態の収拾にあたったのは財政の専門家として名をあげていたロバート・ウォルポールだった。1721年までには、南海泡沫事件の事務的な処理方針を確定させ、再び経済も回復軌道に戻った。政治責任を問われるはずの人々に対しては追及の手をゆるめて、この事件を煙に巻く形で終わりにさせた。この手腕は、国王ジョージ1世の大きな信頼を勝ち取ることとなり、これ以後、ウォルポールは第一大蔵卿として、1742年まで政権を担当し、「国王は君臨すれども統治せず」と形容される、イギリス議院内閣制の基礎を築くこととなった。
ミシシッピ計画
南海泡沫事件とほぼ同時期、フランスではミシシッピ計画にともなう株価の高騰と暴落が起こっている。1717年にスコットランドの実業家ジョン・ローが、当時誰からも見放されていたミシシッピ会社の経営権を入手し、ルイジアナ植民地などミシシッピ川流域の北米フランス植民地との貿易にたずさわる権利を得た。
折しも1718年、かねてよりミシシッピ川流域を探検していたモントリオール生まれのジャン・バティスト・ヴィヤンヴィル総司令官が、ミシシッピ川とポンチャートレーン湖にはさまれた三角州に新しい町ラ・ヌーヴェル・オルレアン(現在のニューオーリンズ)を建設した。町の名は植民のパトロンでもあった摂政オルレアン公(フィリップ2世)にちなんで付けられた。
フランス政府は、ジョン・ローの会社に北米および西インド諸島との貿易について25年の独占権を保証し、1719年、フランス東インド会社や中国会社、その他のフランスの貿易会社を併合して翌年には王立銀行を所有するまでに至った。ジョン・ローは、ルイジアナの資源を誇張して伝え、事業計画を巧みに説明した。1719年、この会社の株式は熱狂的な投機対象となり、株価は500リーブルから15,000リーブルに高騰した。しかし、1720年夏、突如として信用不安が起こり、1721年には再び500リーブルまで下落した。ジョン・ローは、1720年のうちに摂政オルレアン公によって解任され、国外に逃亡した。
この2つのバブル事件は、英仏における広汎な資本の蓄積と「金あまり現象」を物語ると同時に、人びとのアメリカ大陸への関心がヨーロッパの景気を左右するまでに至ったことを示している。
北米植民地
フランスの北米植民地
フランスの北米大陸への植民は1604年のカナダ植民に始まる。1608年にはケベック市が、1642年にはモントリオール市が建設され、五大湖地方、さらにはルイジアナと命名されたミシシッピ川流域地方へと勢力を拡大した。
セントローレンス川流域のケベック地方を除くと、フランス植民地はイギリス植民地にくらべて概して人口が少なく、毛皮取引を主体とする一時的な居住が多かった。そのため、インディアンとの摩擦も比較的少ない傾向にあった。フレンチ・インディアン戦争で、インディアンたちが多くフランスと同盟したのもそのためである。
そこでは、フランス政府や国王、王族による直接的な統治がなされていた。